二十、「縛喝(バクトラ)国の様子」

箒はカーシャ(迦奢)草で作られたもので、長さが一尺余り、周囲七寸ばかりの大きさで、柄の所は雑宝で装飾されていました。
仏の洗面所、仏歯、そしてこの箒の三種は斎日(さいじつ)(毎月八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日間)ごとに全ての人に展示して見せるといい、至誠(しせい)の人がご覧になると神光が発せられるということでした。

伽藍の北にストゥーパがあり、高さは二百余尺あったのでした。
また、西南には一軒の精廬(しょうろ)があって、しかしも、この建物は相当に古いもので、この中で修業し四果(しか)を証したもの、何時の時代でも絶えたことがないということでした。
彼らは死して永眠したならば、みな塔記をたてるのですが、その塔は数百余りも連接していたのでした。

バクトラの大城の西北五十里に、堤謂(ていい)城があったのでした。
また、城の北四十里に波利(はり)城があったのでした。
城中には高さ三丈のストゥーパが二つあったのでした。
昔、釈尊がはじろで成道(じょうどう)したときに、堤謂と波利二人の長者の「ばくにょうに少」(むぎこがし)と密を受けたということです。
この二長者ははじめて五戒十善を聞き、ともに供養したいと請うたとのことでした。
釈尊は髪と爪を授けるとき、塔を造らせ造塔の儀式も行ったということでした。

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