二十一、「プラジュニャーカラとの出会い」

堤謂と波利二人の長者は釈尊の髪と爪を持って本国に帰り、霊刹(れいさつ)を建立したのがたくさんの寺のことであったということでした。

城の七十余里にも高さ二丈余りのストゥーパがあり迦葉(かよう)仏(過去七仏の第六)の時の作と言われているものでした。

納縛(ナヴァ)伽藍にタッカ国(磔迦国)の小乗の三蔵がいたのでした。
その名はプラジュニャーカラ(般若羯羅 唐では慧性という)といい、バクトラ国には聖跡が多いと聞き、ここへ礼敬していたということでした。
このプラジュニャーカラは聡明な人で学問を何よりも尊び、若くして仏教の奥義を極めて、九部を研究し、四含(しがん)を広く学んで、その名声は広くインドに知れ渡っているほどの人物なのでした。

彼は小乗の諸経に通じていて、『阿毘達磨(あびだるま)』『迦延(かえん)』『倶舎(くしゃ)』『六足(ろくそく)』『阿毘曇(あびどん)』など、全てに通暁しているのであった。
彼は 三蔵法師が遠く中国から法を求めてやって来たことを聞いて、そして実際に会ってみて非常に喜んだのでした。
三蔵法師はそこで疑問を述べて、『倶舎』『婆沙(ばしゃ)』などの経典を引いて質問したのでした。
その答えは非常に洗練したものであったのです。

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