二十三、「バーミヤンに至る」

バーミヤンの国は東西二千余里の雪中の中にあり、その道路は氷河や砂漠よりもはるかに危険なものでした。
雲は垂れ込めて雪が降りしきり、少しも晴れたことがありませんでした。
酷いところでは数丈の雪が積もっていました。

むかし、宋玉((そんぎょく)戦国時代の楚の詩人)が
「西方の難、増氷峨々として飛雪千里」
と言ったのはこのことを指して言ったことです。
もし大衆のために真の仏法を求めるものでなければ父母から授かった体を犠牲にしてまで、こんな危険なところにやって来るでしょうか。

その昔、王遵((おうじゅん)漢の明帝が大月氏(だいげつし)国に送った使者)は九折りの坂を上って、自ら「私は漢の忠臣である」と言ったということです。
それに比べれば三蔵法師は雪嶺を経典を求めているのであって、まさに如来の真子というべきものであります。

このようにして、漸くバーミヤンの都城は至ったのでした。
ここは伽藍が十余カ所、僧侶が数千人おり、小乗説出世部(小乗二十部の一根本大衆部(だいしゅぶ)よりの分派)を学んでいたのでした。
バーミヤン王は一行を出迎えて、そして王宮に行って供養をしたので、三蔵法師は何日かバーミヤンに滞在してから出発することにしたのでした。

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