四十、「マンガラ城の周辺域 その二」

城の南方へ四百余里ゆくと、ヒラ山(醯羅山、今のイラム山)に至るのでした。
これはその昔、如来が半偈(はんげ)(旧に偈という。梵文の略である。あるいは偈陀というが、これも梵文の訛(あやまり)である。正しくは伽陀というべきである。伽陀は唐の頌(しょう)の意で三十二言ある)を聞いて、薬叉(やくしゃ)の恩に報いるため、身を投じたところであったということでした(聞半偈本生(もんはんげほんじょう))。

マンガラ城の西五十里に、大河を渡ってローヒタカ(唐に赤という)ストゥーパがあったのでした。
この塔の高さは十余丈で、アショカ王が造ったものだということでした。
これはその昔、如来が慈力(マイトリーバラ)王となったとき、刀で身体を刺し五薬叉(ごやくしゃ)に喰らわせた所(慈力王本生(じりきおうほんじょう))であったのでした。

マンガラ城の東北三十余里に、アドブータ(遏部多、唐に奇特という)石ストゥーパがあったのでした。
高さ三十尺で、昔、釈尊がここで人びとのために法を説いたが、仏が去った後に自然にこの塔が生じたということでした。
塔から西へ大河を渡って三、四里ゆくと、一精舎(しょうじゃ)があったのでした。

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