五十四、「東方へ、そして至那僕低(チーナプクテイ)国へ」

一ヶ月後、三蔵法師はまたこの村から東方へ向けて出立し、東方へ行くこと五百余里で至那僕低(チーナプクテイ)国に至り、トーシャサナ(突舎薩那)寺に詣でたのでした。
ここは大徳ヴィニータプラバ(毘膩多鉢蝋婆、原注、ここに調伏光という、即ち北インドの王子)がいたのでした。
彼は礼儀正しく三蔵に通じ自ら『五蘊論釈(ごうんろんしゃく)』『唯識(ゆいしき)三十一論釈』を著した人なのでした。
そんなわけで三蔵法師はここで十四か月滞在することに決め、『顕宗論(けんしゅうろん)』『理門論(りもんろん)』などを学んだのでした。

大城の東南方五十余里のところに、タクサーヴァナ寺(答秣蘇伐那僧伽藍、唐に闇林という)があったのでした。
ここには僧侶が三百余人いて、説一切有部(せついっさいうぶ)を学んでいるのでした。
賢劫(げんごう)(未来の住劫は星宿坊、現在の住劫を賢劫という)の千仏はみなこの地で、人や天部を集めて法を説いていたということでした。

釈尊が永眠されて後、三百年の間に迦多衍那(カトゥヤーヤナ)論師が現れて、この地で『発智論(はつちろん)』を著したのでした。

ここから東北に行くこと百四、五十里で闍爛達羅(ジャーランダラ)国(北インドの境)に至って、ナガラダナ(那伽羅駄那)寺に詣でたのでした。

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