五十九、「サムガバドラ(衆賢)論師」

徳光伽藍(とくこうがらん)の南三、四里にも伽藍があり、ここでは二百余人の僧侶が小乗を学んでいたのでした。
ここはサムガバドラ(衆賢)論師が永眠したところであったのです。
論師はカシュミーラ国の人で、博学高才の誉れ高く、一切有部(いっさいうぶ)の『毘婆沙(びばしゃ)』を明らかにした人なのでした。

当時、世親菩薩(ヴァスバンドゥ)もまた博識で叡智があり、『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』を作って毘婆沙論者の所論を論破したのでした。
この論は誠に意味深く、文も美麗で西域の学僧で褒め称えないものはいないのでした。
そこで鬼神もみなこの経を学んだと言われています。

サムガバドラはこれを見て大いに発憤し、更に十二年専念して、『倶舎雹論(くしゃほうろん)』二万五千頌(しょう)八十万言(げん)を作ったのでした。
論師はこの論考を作り終えると、世親と対面して是非を決めようと欲したのでしたが、その機会を得る前に没してしまったのでした。

世親がのちにその論考をみると、なかなかよく仏説を理解しており、

「この思考力は毘婆沙(びばしゃ)の学徒を減らさないであろう。しかもこの論は、非常に私の理論に順(したが)っている。以降、この経は『順正理論(じゅんしょうりろん)』と名づくべきである」
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

と言ったので、これ以降、この論考はそのように呼ばれることになったのでした。

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