三十九、「大衆部(だいしゅぶ)」

大迦葉結集(けつじゅう)のときに参加できなかったもろもろの学僧、無学の人びと数千人がともに大衆部(だいしゅぶ)の人びとが集まったところに集まって、

「釈尊御在世のとき、私たちは師を一にしてともに学んだのに、釈尊が永眠されると私たちは除名されてしまった。私たちも法蔵を結集して仏恩(ぶつおん)に報じようではないか」

といって、スートラ蔵、ヴィナヤ蔵、マビダツマ蔵、雑集(ぞうじゅう)蔵、ドハーラニ蔵を集め、分類して五蔵とした。
この人びとの中に聖(せい)僧・凡(ぼん)僧がともに入り交じっているので、これを大衆部(だいしゅぶ)というのであった。
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

次に東北方へ三、四里ゆくと、曷羅闍里●「女偏に吉」利●「口篇に四」多(ラージャグリハ)城(唐に王舎城(おうしゃじょう))があるのでした。

外郭(がいかく)はすでに壊れていましたが、内城は高く聳え、周囲は二十余里で各面に一つずつ門があったのでした。
はじめビンビサーラ王(頻毘婆羅王)が上茅(クシャーグラプラ)宮城にいたとき、人民繁栄して民家が接続し、ときどき火災が起こったのでした。
そこで不注意で失火した者があれば、その人を城外の寒林に移したのでした。
寒林とはその国の死屍(しし)を捨てる場所なのでした。

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