四十七、「三蔵法師の論 二」

三蔵法師はさらに続けて、

「さらにまた数論外道のごときは、二十五諦(たい)の義(自性(じしょう)・覚・我慢・五知根・五唯・五大・神我の計二十五義)を立て、その数論に基づいて自性(物質的原理たるそれ自身の存在)より大(または覚ともいう、知覚する決智)を生じ、その大より我執(がしゅう)(または我慢ともいう、我が声、我が福徳として愛する我執)を生じ、つぎにそれより五唯量(五大を生ずる功能ある純粋無雑の原理たる声・触・色・味・香)を生じ、つぎに五大(声大・触大・色大・味大・香大)を生じ、さらにつぎに十一根(耳・皮・眼・舌・鼻などの五知根と舌・手・足・男女・大遺の五作根と心根をいう)を生ずるのだとする。
そして、この二十四諦(たい)の義をともに供奉(ぐぶ)し受用して、それらを順次除去し修得し終われば、ついに清浄の境地を得ることができるのだと説いている。
また勝論師のごときは、六句義というものを立て、実・徳・業・有・同異性・和合性の六義をもってこれにあてている。そしてその六は我の受具するところであり、それから解脱(げだつ)できない場合は、その六義を受用しているものとし、もし解脱を得られれば、それは六義と相離れることができ、結局涅槃(ねはん)の境地に達するのだと称している」

といった。
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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