四十八、「三蔵法師の論 三」

三蔵法師はさらに続けて、

「そこでまず私は、前者の数論の教義を論破(ろんぱ)してみよう。汝(なんじ)らは二十五諦(たい)のうち、我(すなわち神我)の一種のごとき別性の存在で、その他の二十四諦が展転(てんてん)と変成して、結局一体となるのだと考え、しかも自性は一種の三法をもって本体をなすとしている。そしてその三法サットヴァ(薩●「土篇に垂」、歓喜)・ラジャス(刺闍、悲観)が展転して『大』以下の二十三諦を合成して行くのだと考え、さらに二十三諦もみな三法をもって本体としているのだと説いている。
ところで、もし『大』以下の二十三諦をもって、一々みな三法をとって変成するのだとするならば、その数は際限なく林立してしまって、どうしてそれらを一切これ実であるということができようか。またもしこの『大』などが、三をもって成るとするならば、すなわち一は一切ということになるはずです。ところがもし、一すなわち一切であるとするならば、まさに一々にみな一切の作用があることになる。
しかし、そういう論法が許されないとするならば、いったい何によって、三をとって一切の体性(たいしょう)とすることができようか。またもし一すなわち一切ならば、口や眼などの器官が、すなわち大小便の排泄(はいせつ)の路となろう。また一々の作用があれば、口や耳で香をかいだり色をみることができるはずである」

といった。
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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