八、「耽摩栗底(タームラリプテイ)国から師子(シンハラ)国へ」

耽摩栗底(タームラリプテイ)国も海に近く、伽藍は十余か所あり、僧徒は千余人いたのでした。
城のそばには、高さ、二百余尺のストゥーパがあり、これもまたアショカ王が建てたものなのでした。
この塔のそばには、過去四仏が来られたという遺跡があるのでした。

この国の法師ははるか南方海上に僧伽羅(シムハラ)国(これは執師子という)という国があり、そこでは上座部の三蔵を明らかにし、『瑜伽論(ゆがろん)』を理解する者がいるということでした。
その国へは海路七百由旬(ゆじゅん)で達するであらうという話を聞いたのでした。
ところが出発前に三蔵法師は、南インドの僧に会ったのでした。

彼は、

「師子(シンハラ)国に往(ゆ)くには普通、舟では行きません。海上に暴風・荒波や薬叉(やしゃ)(鬼神)などの難が多いからです。南インドの東南隅から行けば、舟にのって三日で行きつくことにができます。そこまでは山川を跋渉(ばっしょう)してゆかなければなりませんが、ともかく安全です。しかも途中、烏荼(ウダ)などの諸国の聖跡をみることができます」

と勧めてくれた。
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

そこで三蔵法師は烏荼(ウダ)国(いまのオリッサ州、東インドの境)に向かったのでした。

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