十、西突厥(にしとっけつ)の葉護可汗(ヤプクカガン)

早春のベダル峠越えは、想像以上に厳しいキャラバンになのでした。
峠を越える七日間に同行の十数人が凍死し、多くの牛馬が倒れたのでした。

やがて玄奘三蔵一行は、西突厥の葉護可汗に会い可汗の大天幕に導かれたのでした。
この西突厥の衙帳(がちょう)は、トクマクの北でカザフスタン共和国に入り、約十キロ北方から少し東進すると広濶(こうかつ)な草原があります。
この草原は、いまも軍馬の牧地になっています。

金糸をあしらった可汗の天幕は燦(さん)として輝き、左右には多くの君長が二列にずらりと坐り、その盛大さはまことに北アジアの王に相応しいものなのでした。
高昌国王の手紙と贈り物を見て可汗は大いに喜び、ここでも玄奘三蔵はインドへ行かぬように勧められたのでしたが、玄奘三蔵は相変わらず初志を変えることがなかったので、可汗は通訳をつけて西トルキスタンに赴かせたのでした。

このように玄奘三蔵が高昌国王や西突厥可汗に厚遇を得ることができたのは、玄奘三蔵の人格や学識が一際素晴らしかったことを物語るものであり、また、同時に、玄奘三蔵が当時の東西交通のメインストリートを権力者の庇護(ひご)のもとに西行(せいこう)したことを示すものなのです。

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