十二、カシュミールに至る

玄奘三蔵は、しばらくこの国に滞在したのでしたが、新しい設に道案内人と駅馬を与えられて、バクトラ経由でバーミヤンへと向かったのでした。
つまり、西突厥可汗の威令は、活国の設にも及んでいて、さらに北インドのカシュミールに達していた事になります。

活国からカシュミールにかけても、玄奘三蔵は駅馬とガイドにより、比較的安楽に旅を続けることができたのでした。
その道はまた古来、西トルキスタンとインドを結ぶ主要路なのでした(巻の第二を参照)。

インドへ入ってからは、玄奘三蔵は、更に各地の仏蹟をつぶさに巡礼し、ガンダーラ、ウジャーナ、タクシャシラーなどの諸国を経てカシュミールへと至ったのでした。
その道中、玄奘三蔵は、各地で僧称、調伏光、月甲ら大徳について学びながら巡遊したのでした。
特にカシュミールの僧称法師のもとで、二年にわたって研学しています。

『慈恩伝』をそのまま鵜呑みにすると以上の事が考えられるのですが、玄奘三蔵の旅行ルートについては『大唐西域記(だいとうさいいきき)』と読み合わせて検討してみると、『慈恩伝』に書かれていることが必ずしも正しいとは限らない事が解かります。
『大唐西域記』を編纂した弁機は、そのあとがきで、行○○国と書いた国は親践国で、至○○国と書いた国は伝聞国だと述べています。

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