十三、玄奘三蔵の西域への旅のルートに関して

しかし、『慈恩伝』を著すにあたって、『西域記』を利用した慧立(えりゅう)・彦●「りっしん篇に宗」(げんそう)らは、この区別が気付かずに、全て親践国にしてしまったいきさつがあります。
そこで、実際の玄奘三蔵が通ったルートと『慈恩伝』とのルートは、必ずしも一致しません。

例えば、『慈恩伝』はサマルカンド周辺のソグド諸国全てを親践国としていますが、実際は、玄奘三蔵は、サマルカンドからブハラなどの他の諸国には行かずに、まっすく南下したのでした。
また、ガンダーラからウジャーナ、インダス河上流地方へも行ったように記されていますが、ここも玄奘三蔵は行かなかったか、行ったとしても、それは帰路の事で往路にはウジャーナへは立ち寄らなかったと考えられます。

以上のように玄奘三蔵の天竺の旅は親践国と伝聞国の区別が必ずしも簡単に見分けがつかないのですが、これに関しては検討が必要です。
今後の研究にそれは任せたいと思います。

その後、玄奘三蔵は北インドから中インドへ、あるときは盗賊に襲われ、生命の危険な目に遭いながらも各地の仏蹟を巡礼したのでした。
玄奘三蔵は南北に大きく移動しながら答申したのでした。

例えば、我々が実際に旅行する場合に、玄奘三蔵のような旅行をするだろうか。

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