二十一、中国への帰国

ヒンドゥクシュの山越えには、多くの人馬が雪路に悩まされる事になったのでした。
トカラ国の故知に入ってクンドゥズ(活国)に着いたとき、玄奘三蔵は帰途三年を約束した高昌王が既に亡くなっていて、高昌国も既に唐軍に滅ぼされたことを知ったので、玄奘三蔵は、最短路のパミールから南道を経て帰国する道筋を選んで帰路を急いだりのでした。

パミール山中では盗賊に襲われて、インドから多くの経典を背負ってきた象が溺死するなどさんざんな目に遭いましたが、ようやくカシュガルを経てクスタナ国(于●「門構えに眞」ホータン)にたどり着く事ができのでした。

ここで玄奘三蔵は、上奏文を太宗に送り、帰国の勅許を請うたのでした。
太宗は沿道の諸国に送迎に不自由のないように命じて、敦煌(とんこう)の役人に流砂に出迎えるように命じたのでした。

いまや、玄奘三蔵は何一つ憂うる事なく、ひたすらに旅程を伸ばして一路長安へと向かったのであった。

貞観十九年(六四五)正月五日、長安に通ずる運河を急ぐ一隻の船があったのでした。
船中にはうずたかく積まれた荷物に囲まれて一人の僧が端坐していたのですが、それこそが前後十八年という難行に満ちた長旅を終えようとしていた玄奘三蔵なのでした。

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