二十三、玄奘三蔵、翻訳を始める

しかし、玄奘三蔵は太宗の申し出を固く辞退し、持ち帰った仏典の翻訳に専念したいと願い出たのでした。
太宗はこれを許し、長安留守の房玄齢に翻訳の準備を整備するように命じ、玄奘三蔵は、それとともに西域(さいいき)・天竺(てんじく)の地理・政治・経済など、あらゆる事情を記した本を書いて欲しいと要請したのでした。
そして、長安の弘福寺で翻訳にかかるように命じたのでした。

三月一日、玄奘三蔵は、洛陽から長安に戻り、弘福寺に入って翻訳を始める事になったのでした。
そこで必要な証義(しょうぎ)(訳語の考証)、綴文(ていぶん)(文体の統一)、筆受(ひつじゅ)(口述筆記)、書手(しょしゅ)(浄書著)などを箇条書きにし、西京留守の房玄齢に提出し、六月までに証義の高僧十二人、綴文の大徳九人らが集まり、字学、梵文、書手、役人、必需品などもことごとく集まったのでした。

そこで、六月丁卯の日から、玄奘三蔵はいよいよ貝葉(ばいよう)の経典をとって翻訳を始めたのでした。
玄奘三蔵が貝葉梵文を手に取って訳すと、全国から集まった高僧たちが補佐をし、流麗な漢文に移してゆくのでした。

かくして貞観十九年(六四五)六月から、麟徳三年(六六四)二月まで、翻訳は続けられ、その部分は『慈恩伝』巻六から巻十までに述べられています。

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