二十五、その後の玄奘三蔵 二

貞観二十二(西紀六四八、玄奘四十七歳)

この年の春、太宗は長安の北六百余里にある玉華宮(ぎょっかきゅう)(後の玉華寺)に行幸したのでした。

夏、五月十五日―、玄奘三蔵は『瑜伽師地論』一百巻を訳し終わったのでした。
六月、帝は勅(みことのり)して玄奘三蔵を招いたので、玄奘三蔵は六月、玉華宮にいたのでした。
太宗がわざわざ玄奘三蔵を招いたのは、再び玄奘三蔵を還俗させて、政務の補佐をさせようと思ったからなのでした。
玄奘三蔵は誠心誠意五つの理由を挙げて、自分の本分は寺院にいて、釈尊の遺法を明らかにする事にあり、この志(こころざし)はあくまで遂げたいと上奏したのでした。
太宗もその熱意にうたれ、「よろしい。今日から朕(ちん)も師を助けて仏教を弘(ひろ)めよう」と約されたのでした。

このとき玄奘三蔵は『瑜伽師地論』を奉呈したのでした。
また帝は『金剛般若経(こんごうはんにゃぎょう)』の新約を求められたので、玄奘三蔵は玉華宮で翻訳に取り掛かり、十月一日、『能断金剛般若波羅密経(のうだんはんにゃはらみっきょう)』一巻を訳出したのでした。

十月中ごろ、帝に従って長安に帰り、宮中の弘法院に住み、昼は帝の側近に侍し、夜は院に帰って訳経したのでした。
ここで、『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』十巻、『論』十巻、『縁起聖道経(えんぎしょうどうきょう)』一巻などが訳されたのでした。

十二月二十二日、皇太子が新たに建立した慈恩寺の上座になったのでした。
玄奘三蔵は、病を理由に辞退したのですが許されず、この日、新たに慈恩寺に入る五十人の高僧と弘福寺から慈恩寺に入ったのでした。

この年、太宗から『大唐三蔵聖教序(だいとうさんぞうしょうきょうじょ)』が下賜されたのでした。

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