二十七、その後の玄奘三蔵 四

永微二年(西紀六五一、玄奘五十歳)

春正月、蒲州刺使の李道裕、穀州刺使の杜正倫、恒州刺使の簫鋭ら四人の刺使が来て、玄奘三蔵とともに菩薩戒を受けたいと請うたのでした。
玄奘三蔵は、これらの人びとの戒を授け、同時にひろく菩薩の行法を説いたので、人びとは喜んで辞去し、のちにおのおの浄財をを喜捨し、ともに戒法を聞いたことを感謝したのでした。
玄奘三蔵が賢臣から慕われたのはかくのごとくであったのでした。

永微三年(西紀六五二、玄奘五十一歳)

春三月、玄奘三蔵は、慈恩寺の端門の南に高さ百八十尺の甎塔(せんとう)を建てたのでした。
ここに玄奘三蔵は西域から将来した経像を安置し、火難と散佚(さんいつ)を防ごうとしたためでした。
初めは三百尺の石造にしたい計画だったのですが、皇帝の意向で百八十尺の甎塔となったのでした。

塔基の四辺はおのおの百四十尺あり、西域風の五階建てでした。
唐の南面に二つの碑があり、太宗・高宗二聖の「三蔵聖教序」が尚書右僕射の猪遂良の筆で記されていたのでした。
起工にあたって玄奘三蔵は親しくもっこを背負い、甎石を運んでいたが、完成には前後に年がかかったのでした。

この年の五月、珍客が訪れたのでした。
中インドの摩訶菩提(マハーボディ)寺の僧、法長(ほうちょう)です。
彼は玄奘三蔵が在印の時の旧友、智光(ジュニアーナプラバ)と慧天(プラジュニアーデーバ)の手紙と贈り物白氈二枚を持ってきたのでした。
手紙には久濶(きゅうかつ)を叙する挨拶とともに、「必要な経典があったなら、彼に目録を持たせて送ってくれるように」と書かれてあったのでした。

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