三、比丘僧になる

ところが、その当時の隋末の混乱期に洛陽はすっかり廃れてしまっていたので、六一一八年(武徳一)。
玄奘三蔵は、長安に赴いたのでした。
しかし、当時の長安は、まだ唐朝も草創期であったために、兵乱が相次いで起こり、また、仏教を学ぶ議席もなく、多くの大徳・学僧は蜀(しょく)(四川省)に遁れたので、玄奘三蔵らもまた、蜀の成都に赴き、その地で数年間修業を積んだのでした。

六二二年(武徳五)、玄奘三蔵は満二十歳を迎えたので、成都で受戒し、いわゆる比丘(びく)僧になったのでした。

玄奘法師の正卒年は諸説ありますが、幸いにしてこの受戒の記録はいづれの書物でも違わないので、玄奘三蔵の正卒年は産出されるのでした。

さて、比丘僧になれば、各地の高僧を訪れて、研究するのが一般的なものでした。
玄奘三蔵も既に蜀の経論を学び尽くしたので、慣例に従って、各地の学匠を訪ね、ひたすら、研究に没頭しようとしたのでしたが、蜀の条例や兄の諌止(かんし)にあい、思うがままに出かける事が出来ないのでした。

しかし、玄奘三蔵はやがてひそかに商人と親しくなり、友となって揚子江を下って荊(けい)州の天皇時に至ったのでした。
玄奘三蔵の学名は既に荊州でも既に聞こえていて、ここで彼は、夏から冬にかけて『摂大乗論』と『阿毘曇論(あびどんろん)』の講義をしたのでした。

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