三十、その後の玄奘三蔵 七

顕慶元年(西紀六五六、玄奘五十五歳)

正月、十三歳の皇太子忠が廃され武皇后の生んだ弘が三歳で皇太子になったのでした。
王子忠は左遷され、やがて庶民に落とされて、数年後、二十二歳で亡くなったのでした。

この頃、黄門侍郎薜元超(こうもんじろうへきげんちょう)、中書侍郎李義府(りぎふ)は玄奘三蔵のもとに行き、「法師らの経典の翻訳は、もとより法門の美挙である。これをどのように顕彰しましょうか」と尋ねたのであった。

玄奘三蔵は、「古来経典の翻訳に当たり、僧以外に君臣の賛助した者は少ない。ぜひそうすべきである。また、慈恩寺は壮麗だが、ここに碑を建てて、遺芳を後世に示すことはおこなわれていない」と答えたので、まもなく二人の上奏により帝はみなこれらの件を認可されたのでした。

顕慶元年三月、御製(ぎょせい)の大慈恩寺の碑文が出来上がったのでした。
この年の五月、玄奘三蔵はいままでの凌山や雪嶺を越えた疲れのためか、冷病(呼吸器病)がひどくなり、重態に陥ってしまったのでした。
皇帝は侍医をつかわせて看病させ、必要な薬品は全て内庫から送らせたのでした。
侍医は日夜、傍らを離れずに、やっと五日目に重態を脱することができたのでした。
その後、玄奘三蔵は、順調に回復したので、皇帝は使いを派して玄奘三蔵を宮中に迎え、凝陰殿の近くに置き、そこで翻訳を続けさせたのでした。
(続く)

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