三十一、その後の玄奘三蔵 八

(承前)
顕慶元年の十月、武皇后の出産が近付いたのでした。

武皇后は、やがて後になると、高宗が多病のために、みずから代わって朝政を摂り、帝の没後、わが子の中宗、睿宗を次々と廃立し、唐朝の貴族数百人を殺した女傑だったのですが、さすがに出産を前に心細くなったのか、玄奘三蔵に安産の祈祷を依頼したのでした。

玄奘三蔵は、「聖体は必ず安らかで、しかも御生まれになるのは男児でしょう。無事御出産の後、ぜひ出家をお許し下れますよう」と上奏し、勅許を頂いたのでした。

十一月五日夕刻、突然一羽の赤雀がきて御張に泊まったのでした。
玄奘三蔵が吉兆であると上奏すると、まもなく、勅使が来て、「ただいま、皇后が出産なされ、果たして男児が生まれ、仏光王と名付けられた」と伝えられたのでした。

顕慶二年(西紀六五七、玄奘五十六歳)

春二月、高宗は洛陽に行幸し、玄奘三蔵もこれに従ったのでした。
翻訳僧五人と弟子各一人も同行したのでした。
玄奘三蔵の故郷は、洛陽の東七十里ほどの陳堡谷にあったのです。
玄奘三蔵はほぼ四十余年ぶりに故郷を訪れたのでした。
親戚知人もほとんどか死んでしまっていましたが、ただ一人姉が生きていたので、二人で父母の墓にお参りしたのでした。
墓はすでに年久しく荒廃していたので、玄奘三蔵は帝の勅許を得て公費で父母の墓を改葬したのでした。
秋九月には、故郷に近い少室山の少林寺に隠退したいと願い出たのでしたが、このたびも願いは許されなかったのでした。
十一月、玄奘三蔵は相変わらず積翠宮で孜孜(しし)として翻訳に従事していましたが、緊張のために病気になってしまったのでした。
帝は心配して供奉内医を遣わせて看病させ、しばらくしてもよくはならなかったのでした。
(以上『慈恩伝』巻九)

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