三十二、その後の玄奘三蔵 九

顕慶三年(西紀六五八、玄奘五十七歳)

三年三月、帝は洛陽から長安に移り、玄奘三蔵もまた帝に従ったのでした。
秋七月にふたたび勅があり、玄奘三蔵は西明寺に移ったのでした。
ここはもとの濮王泰の屋敷跡に造られた寺で、周囲数里、十院四千余室の広大な寺なのでした。

顕慶三年(西紀六五級、玄奘五十七八歳)

四年十月、玄奘三蔵は、長安から玉華寺におもむき、ここで翻訳に没頭する事になったのでした。
玉華寺はもと太宗の離宮であったのでしたが、永徽二年以来、廃されて仏寺になっていたのでした。
玄奘三蔵は、『大般若経(だいはんにゃぎょう)』の翻訳に没頭するためにココニ移ったのでした。
そして、翌五年正月からいよいよ『大般若経』の翻訳に取り掛かったのでした。

この経はサンスクリット原典では二十万頌(じゅ)もあったのでした。
玄奘三蔵の協力者は抄訳をすすめ、一時は、玄奘三蔵も一時はそう考えたのでしたが、その夜に悪夢に襲われたのでした。
危ないところを歩き、猛獣に襲われ、戦慄(せんりつ)して汗を流したのであった。
玄奘三蔵は目がさめて大いに反省し、一同に向かって「やはりもと通りの省略せすに翻訳しよう」と語ったのでした。

龍朔(りゅうさく)元年(六六一)になり、玄奘三蔵は六十歳になったのでした。

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