四、玄奘三蔵、長安へ

玄奘三蔵は荊(けい)州から更に華北の各地を訪れて、相州の慧林、趙州の道深らを尋ねて研学を積んだのでした。
その後、玄奘三蔵はようやくあこがれていた長安に入って、善光寺の法常、弘福寺の僧弁の二大徳について学ぶことができたのでした。

しかし、すでに各地で、毘曇(びどん)、摂論(しょうろん)、成実(しょうじつ)、倶舎(くしゃ)などさまざまな仏教哲学を学んでいたので、二大徳に「仏門千里の駒(こま)」と称されていたのですが、玄奘三蔵は仏教哲学を学ぶにつれ尚更深く悩む事になったのでした。

それというのは、インドの三世紀のころ、龍樹(りゅうじゅ)らによって成立した「空観(くうかん)」を中心とした大乗仏教の組織教学、五世紀の初めごろに、鳩摩羅什(くまらじゅう)らによって中国に伝えられ、南北朝時代の仏教は、龍樹系仏教が盛んであったのでした。

ところがそのインドでは、五世紀に無著(むじゃく)、世親(せしん)によって「心識(しんしき)」を中心とした精密な論理の「唯識(ゆいしき)」の教義が宣揚されて、この新大乗は六世紀に中国に伝わったのでした。
南朝の梁(りょう)に来朝した真諦(しんたい)は無著の『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、世親の『摂大乗論釈(しょうだいじょうろんしゃく)』などを次々と訳したのでしたが、龍樹系仏教が支配的だった中国ではなかなか受け入れられなかったのでした。

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