五、インドへと向かう決心

ところが、七世紀になって、玄奘三蔵の時代には無著・世親の仏教学の研究が中国でもようやくにして盛んになりましたが、しかし、様々な異説も同時に起こったので、中国での仏教哲学は種々さまざまなものがあり、混乱を来していたのでした。

当時の中国では、同一の経論でも人によってその解釈はまちまちで、それぞれの説を聖典に照らし合わせてみるたところで、どうしても適従するところがなかったのでした。
そのために玄奘三蔵はどうしても本場のインドへ赴いてその疑問をただし、疑問をただす事と同時に合わせて仏教哲学の最高峰『十七地論(じろん)』(瑜伽師地論(ゆがしじろん))を得て、諸々の疑問を解決したいと決心したのでした。

そこで玄奘三蔵は何人かの同志ともに、インドへと赴きたいとの旨を上表したのでしたが、唐朝はこれを断じて許さなかったのでした。
唐朝の草創期には、国人の国外交通を一切許されなかったのでした。
同志の人びとは、その事で、皆インドへ赴くことを断念しましたが、ひとり玄奘三蔵のみはインドへと旅立つことを諦められず、みずから様々な困難を試み、、それと同時に西域旅行の準備は怠らずに、秘かに仏に祈念して、往還における聖衆の加護を願ったのでした。

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