三、「三蔵法師の言葉」 一

「法王(シャカ)が教を立てられたのは、あまねく教を流通させるためでした。自分ひとりの心の教えで潤(うるお)すだけで、まだ悟(さと)りをえぬ人をそのまま残しておいていいのでしょうか。しかも中国はそんな野蛮国(やばんこく)ではありません。服装・制度はととのてい、君は聖、臣は忠、父は慈しみ深く子は孝養をつくし、仁義に貴(たっと)び、年長者を尚(たっち)び賢人をうやまう国です。しかも識者は幽微(ゆうび)を明(あき)らかにし、智は神と交じわうほどです。彼らは自然の法則に従って物事をおこない、七星の輝きも彼らの文化活動を蔽(おお)うことができず、機械で時を分かち、六種の音律による音楽による音楽構成を作りました。彼らはまた鳥や獣を用いて鬼神をよび集め、陰陽(いんみょう)を知って万物(ばんぶつ)を安らかにします。仏教が東漸(とうぜん)してからはみな大乗を重んじ、池の澄んだ水のごとく安定し、大乗の盛んなことは百花の咲き乱れるごとくです。衆僧は発心(ほっしん)と行いが十地(無明(むみょう)の惑(まど)いを断(た)ち真如(しんにょ)を証(しょう)する十段階)に達せんことを願い、修行と研学の三身(仏の法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん))に至ることを極致と考えています。しかも大聖(シャカ)はいつも霊を下して親しく法化(ほうげ)をはかられ、われわれは耳に妙説を聞き、目に黄金の真影(しんえい)を拝しているのです。このような国は長い旅路をふんでもなかなかありません。釈尊が行かぬからといって軽んずべきではないと思います」
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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