四十八、「上表文(じょうひょうぶん) 一」

王はこの様を見て大いに喜び、仏をほめ讃えたのであった。
そして、羅漢(らかん)に頼んで、人びとに説教をしてもらい、広く国人とともに供養を興(おこ)したのであった。
つまり、この伽藍(がらん)はこの地方で最初に建てられたものだったのです。

さて、三蔵法師は、先にシンドウ河に渡ったときに経典を失ったので、クスタナ国から使いをクチャとカシュガルに送って経典を求めさせたのでした。
また、クスタナ王がもてなして引き留めるので、すぐには帰国するわけにはゆかなかったのです。
そこで上表文(じょうひょうぶん)を書き、高昌(こうしょ)の少年にキャラバンと一緒に入朝させ、昔、バラモン国に赴いて法を求め、いま帰還してクスタナに至った次第を上奏したのでした。
その上表文は次の通りです。

沙門玄奘が申し上げます。
私の聞く所では、後漢の大儒馬融(ばゆう)の学は博学で、そのため鄭玄(じょうげん)は扶風の師馬融につき、前漢の儒者伏生(ふくせい)は明敏なので、晁錯(ちょうさく)は済南(さいなん)におもむいて彼の学を窮(きわ)めたとのことです。
このことによって、手近な儒学でさえ、古人はなおかつ遠く真の学を求めたことがわかります。
いわんや諸仏や遺品の真跡や経・律・論三蔵の妙説を、いかに道が遠いといっても、はるばる尋ね慕(した)う者がどうしてないといえましょう。(続く)
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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