四十、「三蔵法師の謝意 一」

そして三蔵法師は王から沙弥(しゃみ)(少年僧)や国書・綾絹などを送られ、その餞別がとても多かったので、三蔵法師はそのことを恥じらい、謝意を述べたのでした。

玄奘が聞くところによると、江海(こうかい)ははるかに深く、これを渡るものはかならず舟楫(ふなかじ)によるとのことです。
群衆を惑うのを導くのは、まことに聖言(せいげん)によるものです。
そこで如来は一子を愛するような大慈悲心をめぐらしてこの穢土(えど)に生まれ、三明(さんみょう)(天眼明(てんがんみょう)・宿命明(しゅくめいみょう)・漏尽明(ろうじんみょう))の慧日(えじつ)を輝かして、此の世の幽昏(ゆうこん)を明らかにしました。
慈しみの雲ははるかに天を蔽(おお)い、法雨(ほうう)は三千世界を潤しました。
すべての者に利益を与えた後、如来は応ずることをやめて、真実に帰しました。
彼が遺した教えが東方へ流れて六百余年、迦葉摩謄(かようまとう)と康僧会(こうそうえ)は輝きを呉洛(ごらく)に振い、曇無讖(どんむしん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)は美を秦・涼に集めました。
彼らは玄風(崇高な考え)を落とさず、みなすぐれた功績を残しました。
ただ遠方の人が来て、経典を訳したので、音訓が同じではありません。
釈尊去って時はるかにして解釈がくい違い、ついに沙羅双樹(さらそうじゅ)下の仏陀の教えが、二つの極端な教えに分かれ、一つは大乗の教えが、南方派と北方派に分かれてしまいました。
争論紛糾しておよそ数百年、どこでも疑いを抱いていますが、これを決する学匠がおりません。
〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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