七、「二十歳のころの三蔵法師」

六二二年に、三蔵法師は満二十歳になりました。
二十歳になったので、成都で受具(じゅぐ)と言われる僧職授任式をうけました。
そして、雨季三か月間の静坐・入禅を行う夏坐(げざ)を律して学び、具足戒(ぐそくかい)を罪果より五遍とし、その罪性(ざいしょう)と因罪(いんざい)を七聚(ななじゅ)とする五遍七聚の教えを一篇で修得したそうです。

このようにして、三蔵法師は、益州での経論は既にことごとく研究し尽くしたので、三蔵法師は長安での経典の奥義の研究をしたいと考えるようになりました。
しかし、条式(法律)によってそれは阻まれ、また兄にも止められたので長安行きはすぐには実現できなかったのでした。

そこで三蔵法師は密かに商人と仲間になり、舟で三峡を経て揚子江を逃げ下り、荊州(湖北省光陵県)の天皇寺へ向かったのでした。
この地の僧侶などは、前々から三蔵法師の名声を耳にしていたので、誰もが三蔵法師が説教されんことを望んでいるのでした。

そこで三蔵法師は人々に『摂論(しょうろん)』と『毘曇(びどん)』を講義し、夏から冬にかけて三回ほど三蔵法師は講義を行ったのでした。

当時、この地は徳望が高い事で知られていた、唐朝の一族であった漢陽王『王偏に壞の旁』(かんようおうかい)が治めていました。
その王は三蔵法師が来たことを大変喜んだそうです。

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