十五、「颯秣建(サマルカンド)国を跡にしてさらに西方へ」

この一件があった後に三蔵法師は、大会(だいえ)を開き、或る人を寺において出家させたのでした。
三蔵法師はその後も。次々と人びとの迷妄や邪見を正し、迷いにある風俗を啓蒙すること、颯秣建(サマルカンド)国のいたるところで行われたのでした。

そして、三蔵法師は西域へ向け颯秣建(サマルカンド)国を出発しました。西方へ二百余里で屈霜「人偏に爾」迦(クシャーニカ)国に至ったのでした。
さらに西方へ二百余里で喝扞(カカン)国、さらに西方へ四百里で捕喝(ブハラ)国(今のブハラ地方)に至ったのでした。
更に西方へ伐地(バツテイ)国(唐では西安国と言った、今のベディク地方)さらにまた、西方へ五百里で貸利習弥迦(ホリスミカ)国(今のホラズム地方)に至ったのでした。
この国の東は縛蒭河(ばくすうが)が望んでいるのでした。

また、颯秣建(サマルカンド)から西南に三百余里で羯霜那(ケシユ)国(唐に史国という、今のシャフリ・サブズの古名)に至ったのでした。
其処から二百里行くと山にはいることになります。
山路は嶮しくなかなか進むことができず、わずかに人が歩ける道があるだけで水も草もなかったのでした。
山道を行くこと三百里で鉄門(シャフリ・サブズの南方九十キロ、デルベンドの西方十数キロにある山間の隘路(あいろ)突厥碑文にテミル・カピク)に入ったのでした。

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