二十四、その後の玄奘三蔵 一

貞観十九(西紀六四五、玄奘四十四歳)

六月丁卯の日、玄奘三蔵は訳経を開始しました。
この年に『菩薩蔵経(ぼさつぞうきょう)』二十巻、『六門陀羅尼経(ろくもんだらにきょう)』一巻、『顕揚聖教論(けんようしょうぎょうろん)』二十巻および『頌(じゅ)』一巻の四部が選ばれました。
これらの経典は一日で訳し終わったものもあれば、数か月要したものもありましたが、その年の暮れにはほぼ訳了していました。
また、太宗の命により西域・天竺の地理・情勢の記述が弟子の弁機によって執筆されました。

貞観二十(西紀六四六、玄奘四十五歳)

『大唐西域記(だいとうさいいきき)』十二巻が完成し、これと前年末までに訳了された五部五十八巻の経典に上奏文を付けて、七月十三日、上呈されたのでした。
太宗は遼東遠征(りょうとうえんせい)から帰り、西京にいたのでした。
この年の五月から『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』の翻訳が始まったのでした。
全百巻で翻訳に満二年を要しました。

貞観二十一(西紀六四七、玄奘四十六歳)

この年は前年に引き続き、『瑜伽師地論』の翻訳に没頭したのでした。前年インドの戒日王のもとに派遣された正使、王玄策(おうげんさく)、副使、●「蒋の旧字体」師仁(しょうしじん)は、この年インドに着いたのですが、戒日王は既に没していて、その国は大臣、阿羅那順(アルジュナ)に王位は奪われ、王玄策らを攻撃したのでした。
王玄策らは吐蕃(とばん)やネパールの力を借りて曲女城(きょくじょじょう)を攻略して阿羅那順を捕え、貞観二十二年五月に帰国したのでした。

このページの先頭へ