三十、「水にありつき、流砂を抜ける」

三蔵法師は体が蘇生したのを感じて少し眠ることが出来たのでした。
ところがその睡眠中に、夢に身の丈数丈の一大神が現われ戟(ほこ)をとって差し招き、「どうして強行せずに、眠っているのか」といったのでした。

三蔵法師はそれに驚いて目が覚め、さっそく出発したのでした。
十里ばかり行くと、馬はたちまち異なった道をゆき、三蔵法師が制しても聞かなかったのでした。
そのまま数里行くと、広さ数畝(せ)(一畝は訳五百八十平方メートル)の草原に着いたのです。
三蔵法師は馬を下りで、思う存分に草を食べさせ、草原から十歩ばかり進んで引き返そうとしたときに池を発見したのでした。
水は甘く透き通っていました。三蔵法師は直ぐにその水を飲み、身命ともに生き返り、神馬ともに生き返ることが出来たのでした。

これをよくよく見ると古からあった水草ではないらしいのです。
三蔵法師は、これは観世音菩薩の慈悲によって生じたものと考えたのでした。
人の至誠が神に通じるのは、みなこのようなものです。
三蔵法師はここで一夜を過ごし、翌朝水を皮袋に入れ、草をとって出発したのでした。

さらに二日を経て、ようやく流砂を出て伊吾(新疆ウイグル自治区)哈密(はみ)県、天山東端のハミ地方)に至ったのでした。

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