二十六、その後の玄奘三蔵 三

貞観二十三(西紀六四九、玄奘四十八歳)

夏四月、太宗は長安の南五十里、終南山の翠微宮に行幸しました。
智用案を出発するときから少し健康を害されていましたが、五月二十六日、頭痛を訴え、玄奘三蔵を宮中に宿直させたのでしたが、翌日五十二歳で崩御されたのでした。
しかし、崩御されたことは秘密にされて発表されることはなく、京に還ってから喪(もの)を発表し、太極殿(だいぎょくでん)に柩(ひつぎ)を停めたのでした。
この日、皇太子が即位しました。

一方、玄奘三蔵は、慈恩寺に帰り、もっぱら翻経に従事して、寸陰も無駄にはしなかったのでした。
すなわち、毎日日課を立てて、もし昼間用事があって、日課が終わらないと、必ず夜にこれを行い、予定が終わってからはじめて筆を止めて、経を集め、仏に礼をして経行(きんひん)し、夜十二時ごろになってしばらく眠り、夜中の三時にはもう起床して、梵文原典を読誦(どくじゅ)して朱点を入れ、翌日翻訳する部分にあてたのでした。

永微元年(西紀六五〇、玄奘四十九歳)

この年も前年に引き続き、孜孜(しし)として訳経に従事したのでした。
しかし、午後には四時間づつ新しい経論を講義し、諸州から集まった学僧の質疑に応じたのでした。
そのほか、玄奘三蔵は、慈恩寺の上座だったので、ときどき寺務について裁決を行ったのでした。
更に諸高僧と西方(さいほう)の諸賢の論議や異端を論じ、少年僧にはインド周遊の話をしてやるなど、声高に論議しても少しも疲れた様子が見えなかったのでした。
玄奘三蔵が精力絶倫(せいりょくぜつりん)で人並み優れていた事はこのような有様なのでした。

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