五、「蜀へ向かい、成都に向かう」

法師とその兄が長安に出たころは、まだ、唐の草創期で、時々戦が起こったり、兵法が急務のことで儒学や仏教などを学んでいる暇などなかった状態でした。
そして、長安にはまだ仏教の講席がなかったのでした。
これに三蔵法師が深く嘆いたのは言うまでもありません。

かつての隋の東都には四つの道場があり、名僧も数多おりましたが、隋の末期の混乱によって、多くの僧は綿(めん)や蜀(しょく)に歴遊したとのことです。
そのために蜀には仏法に詳しい人が多く住んでいました。

そこで三蔵法師は兄に向って、
「長安にはいまだ仏法がおこなわれずに、われわれは空しく時を過ごすことはできません。お願いですから、蜀に行って指導をうけましょう」
といい、兄もその意見に従ったそうです。〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

三蔵法師とその兄は、長安県西南百里の子午谷(しごこく)を経て、漢川(かんせん)に入り、空と慧景の二法師に出会うことが出来たのでした。
彼らは皆、道場の大徳であったのです。
お互いの無事を知ると、哀しんだり喜んだりしたということです。

ここ漢川に滞在することひと月あまり、彼らは毎日二人の法師に従って勉学に励み、そして、その後、一緒に成都に向かったのでした。

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