三十八、「布色羯邏伐底(プシュカラヴティー)城から烏仗那(ウジャーナ)城へ」

布色羯邏伐底(プシュカラヴティー)城の東にはアショカ王の造ったストゥーパがあったのでした。
それこそ過去、四仏が説教をしたところでした。
城の北方四、五里のところに、伽藍の中に高さ二百余尺のストゥーパがあって、これもアショカ王が建てたものだということでした。
ここは昔、釈尊が菩薩であった時に喜捨を行うことを楽しみ、この国で旋回生まれ変わって王となり、千生捨眼(せんしょうしゃがん)(亡者への施しとして千回眼を与えたという本生譚(ほんじょうたん))したところだということでした。

これらの聖跡は数限りなくあり、三蔵法師は、いちいちみな巡礼をし、高昌王から施された金銀、綾絹、衣服などみな参観した大塔、大伽藍に施し、供養し、至誠を披歴していったのでした。

これより三蔵法師は烏鐸迦漢荼(ウダカカンダ)城(今のオヒンド)へ赴いたのでした。
城の北方へ山川を越えて行くこと六百余里、烏仗那(ウジャーナ)城(唐に苑という)へ至ったのでありました。
ここには蘇婆薩堵(スヴァトストゥ)河(今のスワトー河)を挟んで、昔は伽藍一千四百か所、僧徒一万八千あったと言いますが、今は荒れ果てて減ってしまっていたのでした。

この地の僧の律儀、宗派は、
一、法密(ほうみつ)部(法臓部ともいう、所衣の律は《四部律》)
二、化地(けじ)部(所衣の律は《五部律》)
三、飲光(おんこう)部(一名迦葉維、説一切有部の分派)
四、説一切有(せついっさいうぶ)部(所衣の律は《十誦律》)
五、大衆(だいしゅ)部(所衣の律は《摩訶僧祇律》)
の五部であったのでした。

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