四十九、「上表文(じょうひょうぶん) 二」

(承前)私はさきに釈尊が西域(さいいき)に生まれ、その遺教(いきょう)が東漸(とうぜん)し、そのすぐれた経典が伝えられたといっても、なお仏教全般からは欠けているので、つねにインドに訪学したいと思い、身命を顧みたことはありませんでした。
そこでついに貞観(じょうがん)三年(六二九)四月をもって国禁(こっきん)を侵(おか)し、ひそかに天竺(てんじく)におもむきました。
漫々たる流沙(りゅうさ)を踏み、巍々(ぎぎ)たる雪嶺を渡り、けわしい鉄門の道、波高い熱海(イシクル・ツク)の路をゆき、長安から出発して王舎新城に至りました。
中間に終わる所は五万余里で、風俗はさまざまに異なり、艱危(かんき)は山ほどありましたが、しかし、天威のおかげで、至るところ道のふさがることはありません。
すなわち人びとの厚礼(こうれい)を蒙(こうむ)り、身は辛苦(しんく)せず、心願を達することができ、ついに耆闍崛山(グリドラクータ)をみ、菩提樹(ブッダガヤ)を礼拝することができました。
いままで人のみたことのない仏跡を見、聞いたことがない経典を聞き、宇宙の霊場・奇瑞(きずい)をきわめ、陰陽の化育(けいく)を尽くし、各地でわが皇風の徳沢(とくたく)を述べ、類稀(たぐいま)れな帝の御心を示しました。(続く)
『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

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