六、インドへと出発

六二九年(貞観三年。玄奘三蔵の出発は貞観元年とする説も存在しますが、ここでは諸説に従って貞観三年出発としておきます。)秋八月、玄奘三蔵はスメール山をきわめるという吉兆の夢に励まされ、勇躍とし西域へと旅立ったのでした。
秦州から涼州に来ると、そこはシルクロードの重要な中継都市の一つだったので、貿易も盛んで、仏教も栄えていたのでした。

玄奘三蔵はそこに一か月滞在し、『涅槃経(ねはんきょう)』や『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を講義したのでした。
ところが、涼州都督李大亮(りたいりょう)は、厳格に出国禁止令を奉じていたので、玄奘三蔵に向かって長安に帰れと迫ったのでした。
幸い甘粛(かんしゅく)仏教界の領袖(りょうしゅう)恵威(えい)法師は、ひそかに玄奘三蔵に弟子を遣わせ、玄奘三蔵を送って西方へと向かわせたのでした。

それからは、昼は伏し夜進むという難行の旅が待っていたのでした。
瓜州(かしゅう)では州吏李昌の好意によって涼州からの通牒は破棄してもらったのでした。
さらに、石槃陀(せきばんだ)という若い胡人(ソグド)の協力でようやく西域へと出発する事が出来たのでしたが、もともとは玄奘三蔵の金を奪おうという悪巧みを持っていた胡人は、玄奘三蔵に長くは付いて行くことができずに、結局の所、玄奘三蔵一人でゴビ砂漠を縦断する事になったのでした。

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