二十九、その後の玄奘三蔵 六

永微五年(西紀六五四、玄奘五十三歳)

二月にマハーボディ寺の法長が帰国する事になったので、玄奘三蔵は智光と慧天に手紙を書き、贈り物をととのえたのでした。
手紙には「先年帰国した王玄策から正蔵法(戒賢)が逝去されたことを聞き、痛惜の念にたえない。
いま正法蔵が亡くなられ、貴僧が後を継がれたので頑張ってほしい。
なお、帰国の時にインダス河を渡るとき、経典を一駄(だ)失いました。
その目録はつぎの通りで、もし伝手(つて)があったら送ってほしい」と記したのでした。

永微六年(西紀六五五、玄奘五十四歳)

玄奘三蔵は、翻訳の余暇に『理門論』や『因明論』を訳したのでした。
この二論はおのおの一巻からなり、論理学について説明したものなのでした。
そこで訳寮たちは、互いにその注釈書を作ったのでした。
ついには尚奉御の呂才も熱心に研究し、『因明註解立破義図(いんみょうちゅうかいはぎず)』を作ったのでした。

呂才は俗人でありながら衆師の説を盗み、好んで異端を起こして声誉を求め、俗世間で宣伝したのでした。
その噂が大変高くなったので、帝は勅して医学士を慈恩寺に行かせ、玄奘三蔵に請うて呂公と対面させたのでした。
呂公は玄奘三蔵と対論して論破され、謝って退出したのでした。

このころ、宮廷では、すさまじい暗闘があり、武昭儀(後の則天武后)が勢いを強め、皇后王氏と皇太子忠が没落したのでした。
十月、王皇后は廃れ、密室に幽閉された上に、引き出して杖叩(つえたた)き一百回、手足を切断し、酒甕(さかがめ)につけて殺されたという。

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