十四、旅のルートに関して

いままでの玄奘三蔵の旅行法を考えてみると、カシュミールからマガダ国への旅も、おそらくカシュミールの案内人がついたと考えられます。
その場合、玄奘三蔵は最短コースを通って、この地方を東進したと考えるのが自然な事に思われます。

このことは時間的な問題につながります。
『慈恩伝』によれば、玄奘三蔵は、各地の大徳について経典を研究し、相当な月日を費やして曲女城に達した事になっています。
つまり、至那僕底(チーナプクテイ)国に十四か月、闍爛達羅(ジャランダーラ)国に四か月、抹底補羅(マテイプラ)国に四か月滞在したと言われ、これらを計算すると、どんなに早くても玄奘三蔵の曲女城の到着は貞観九年(六三五)の暮れ頃になってしまうのです。
果たして、こんなにのんびりとした旅を玄奘三蔵はしたと考えるのが自然でしょうか。

おそらく、玄奘三蔵は、長安出発以前に、インドから来た西域僧(さいいきそう)、例えば、武徳九年(六三六)、長安から来たフラバーカラミトラにより、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を学ぶには広いインドでもまさにナーランダー寺に行き、戒賢(かいけん)法師について学ばなければならないことはあらかじめ知っていた筈です。

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