六十一、「秣底補羅(マティプラ)国からさらなる旅へ」

ヴィマラミトラ(毘末羅蜜多羅)論師の亡くなったところは、大地が陥没して穴になっていたのでした。

マティプラ国には蜜多斯那(ミトラセーナ)という大徳がいたのでした。
彼の歳は九十歳で、かの徳光(とくこう)論師の弟子で、よく三蔵に通じていたのでした。
三蔵法師は、また、ここで春から夏にかけての四か月あまりを薩婆多部(さつばたぶ)の『怛?三底鑠論(たんたさんていやくろん)』(唐に『弁真論』という、二万五千頌(しょう)、徳光の論述であります)『随発智論(ずいはっちろん)などを学んだのでした。

マティプラ国から北方へ三百余里で婆羅吸摩補羅(ブラーフマプラ)国(中インド)に至って、さらにここから東南へ四百余里で亞醯掣●「口篇に旦」羅(アヒチャトラ)国(中インド)へ、さらにさらに南へ二百余里、ガンガー河を渡って西南方に毘羅刪拏(ビラシャーナ)国(中インドの境)に至ったのでした。

また、東へ二百余里進んで、却比他(カピタカ)国(中インド)に着いたのでした。
カピタカ城の東方二十余里に大伽藍があったのでした。
寺院内には三つの宝階(ほうかい)があるのでした。
これらの宝階は南北に連なり、東に面し西側に下っているのでした。

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