七、不東

この瓜州から伊吾(いご)間の旅が玄奘三蔵の西域への旅で一番の困難なのでした。

ここにある五烽(五つの見張り台)のうちで、第一烽と第四烽では、玄奘三蔵は厚遇されたのでしたが、第四烽以降、八百余里にわたる莫賀延蹟(ばくがえんせき)では、渇死寸前までの危険に見舞われたのでした。
玄奘三蔵は、第四烽の王伯隴(おうはくろう)から大きな皮袋や馬麦をもらったのですが、玄奘三蔵が出発するとしばらくして水を下して飲もうとしたときにその袋の重さでひっくり返してしまったのでした。

水がなくては旅を続けることができないので玄奘三蔵は十里ほど引き返したのですが、ここでかつて願(がん)を立てて、インドに到着するしなけば一歩も東へ帰るまいと誓った事を思い出して、玄奘三蔵は水なしに西へと歩を進めたのでした。
これが所謂「不東」の事績なのです。
『慈恩伝』には当時の心境を「もし天竺(てんじく)に至らざれば終(つい)に一歩も東帰せず」と記されています。

四夜五日、一滴の水もなくさまよった玄奘三蔵は、辛うじて老馬の経験と菩薩(ぼさつ)の慈悲により、幻のごとく現れた草地に一命を救われたということです。
玄奘三蔵は、ここで一泊し、さらに二日北上して、ようやく伊吾(ハミ)のある寺に辿り着く事が出来たのでした。

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